〜漫画家を目指すキミに贈る〜森川ジョージ先生特別インタビュー!! 前編
〜持ち込み編〜
持ち込みをしたのは、中学3年生の卒業間際です。
持ち込みの電話をかける時は、すごく緊張したのを今でも覚えています。何せ、当時は15歳の少年でしたから。
そんな僕を後押ししたのは「見てもらいたい」という気持ちでした。
プロの人に自分の原稿を読んでもらい、今の自分の評価はどれくらいなのか、新人たちの中でどれくらいの立ち位置にいるのかを知りたかったんです。
どれくらいの評価かわかれば、どれくらい頑張らなければならないかがわかりますからね。
15歳で持ち込みをするというのは、すごく早いですよね。
僕が漫画家を志すきっかけとなった、ちばてつや先生に追いつきたいと思っていたんです。
だから、動き始めるのは早ければ早いほどいいと思っていました。アシスタントで10年間修業をしたとしても25歳。
それなら、ちばてつや先生と同じ雑誌に載ることができるのではないか、と。
持ち込みをされた時の編集者の反応はいかがでしたか?
少女漫画のような悲しいラブストーリーを持ち込んだのですが、なぜだか笑いながら読まれました。
ちょっと腹が立って「ギャグ漫画じゃないですよ」と言ったら、「リーゼント頭の風貌とギャップがありすぎる」ということでした(笑)。
それから持ち込んだ原稿をあずけ「とにかく描こう」と言われて終わりました。
感想もアドバイスも言われなくて、茫然としながら帰宅したのを覚えています。
それから一週間後くらいに、「MGP(月例賞)で選外佳作に入ったよ」と突然電話がきたのですが、原稿が月例賞に出されていたことを知らされていなかったので、初めはまったくピンときませんでした。
ですが、その受賞記事が載ったマガジンを読んだ時、あまりの嬉しさに涙が出ました。憧れのちばてつや先生と同じ雑誌に載ることができたんですから。
それから、「とにかく描こう」 と言われていたので、すぐに次の原稿に向かいました。
〜アシスタント編〜
MGP初受賞後は、どのような歩みをたどられたのでしょうか?
2作目が、またMGPで選外佳作を受賞し、3作品目でMGPの入選を受賞しました。3回連続受賞で「ちょっとすごいんじゃないか」と思っていました。
ですが、4作品目で新人賞の準入選を受賞したとき、はじめて合本(新人賞受賞作をまとめた本)をもらい、同じ新人のレベルを知ってすごく驚いたのを覚えています。みんな絵が上手い、と。
その時の入選を受賞したのが『Dr.コトー 診療所』の作者・山田貴敏先生で、「入選ってこんなにすごいんだ」と思いました。
それからアシスタント先を紹介してもらって、高校に通いながらアシスタントと自分の原稿を描くという、さらに漫画漬けの生活が始まりました。
自分の原稿にアシスタントに高校生……大変ですよね。
当時は、ネーム(漫画の設計図)やホワイト(修正液)といった基本的なことすら知らない状況だったので、アシスタントで学んだことが本当に新鮮でした。
集中線を描くために原稿に画びょうを刺していいんだとか、ホワイトで原稿を修正してもいいんだとか(笑)。
なので、アシスタントで学んだことを、家に帰ると原稿用紙が何百枚も真っ黒になるくらい練習をしてましたね。
それから、学校なんていつでも辞めていいと思っていたので、授業中も原稿とインクを出して練習してました(笑)。
とにかく起きている時間はすべて漫画に使おうと思って生活していました。漫画を描くのが、本当に楽しくて仕方がなかったんです。
それと並行して自分の原稿も30ページくらいの読み切り漫画を15日くらいのペースで描いていました。
連載を取るまでの間は、ひたすら練習をしていましたね。とにかく絵を上手くしなけれ ば、と。
〜連載編〜
連載までは、どのような流れだったのでしょうか?
アシスタントをしながら読み切り漫画を何度か載せていただいた後に、高校卒業するくらいに突然「連載が決まったから」と編集者に言われたんです。
全然そんな話してなかったのにって、すごく驚いたのを覚えています(笑)。
自分の計画では10年間アシスタントをやってからプロになると思っていたのですが、若いんだから連載というチャンスに挑戦しようよという担当さんの言葉にも押されて、当時創刊2年くらいだった「マガジンスペシャル」で月刊連載をしながら、週刊連載のアシスタントにも入るという生活が始まりました。
読者の反響はいかがでしたか?
人気を取る事はなんて一切考えずにノリノリで描いていたら、4話目の原稿を出した時に「次で終わるから」と言われて、5話で打ち切りになりました。
その時に、はじめて「人気」と「打ち切り」というものを知ったんです。
ただ、その時は連載が終わって「自由になった」くらいにしか思っていませんでした。
そもそも、10年間アシスタントをしてからプロになるという計画だったし、18歳で連載をもらえた事が凄い事だと思っていました。
アシスタントをやれる時間ができたと嬉しさすらありましたね。
まだ、きちんと打ち切りというものを理解できていなかったんだと思います。
なので、すぐに次の連載が始まるのですが、その作品も打ち切られてしまいました。
変化はありましたか?
「プロの漫画家は漫画を描くのが仕事じゃない、人気を取るのが仕事なんだ」と自分の中での意識が変化しました。
プロ野球選手の仕事が、野球をすることではなく、野球で勝つことと同じですよね。
感覚とか勢いとか、そんなもので描いていたらダメだ、と痛感しました。
もちろん、そうやって成功する作家も多くいるし、自分もそういうものなのかなと思っていたのですが、僕には合っていないと思いました。
自分の中に何人もの自分を作って、その自分たちとああでもないこうでもないと会議して、世に出していくというスタイルに変わっていきました。
〜『はじめの一歩』誕生編〜
『はじめの一歩』はどのようにして誕生したのでしょうか?
それまでに3回打ち切りを経験していたので、『はじめの一歩』が最後の挑戦だと思いながら臨んでいました。
なので、『はじめの一歩』のネーム制作時は、ずっと講談社に泊まり込んでましたね。
1年間ネームを直し続けたので、合計で1000ページくらいは直したんじゃないかなと思います。
元々はアマチュアボクシングの漫画だったものが、プロボクシングの漫画になったので、内容も最初とは全然違いますね。
意識されたことはありますか?
意識していたのは、とにかく「人気を取ること」です。
人気を取らないと楽しい事なんて一つもない。だって、仕事がなくなってしまうんですから。
ただ、人気の取り方なんてわからない。
だから、僕にとっては教科書でもある、憧れのちばてつや先生の漫画をいっぱい読みました。
そうして追い求め続けた「漫画が上手いってなんだろう?」という気持ちが、一歩の「強いってどういう気持ちですか?」につながったんです。
何が何だかよくわからなくなって描いた自分の本音が『はじめの一歩』の第1話になり、そしてそれが作品のテーマになりました。
ただ、今なお答えが出せていないテーマでもあります。
〜新人への勧め〜
ネームは完成形ではなく、それをたたき台にして打ち合わせをするためのものだから、とにかく作りましょう。
40ページでも50ページでも、半日あればできると思います。
ドンドン作って、人に見せる。
面白いかどうかなんて自分では判断できないし、1時間でできたものでも、それが面白ければいいんですから。
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はじめの一歩
漫画家としての歩みは編集部への「持ち込み」や漫画賞への「投稿」から始まることが多いと思います。森川ジョージ先生が、週刊少年マガジン編集部に持ち込みをされた、当時の状況を教えてください。